序章
(1)日本のジャズ史を扱った重要な二冊 の本、『日本のジャズ史』『ジャズで踊って』にも中野のことはほとんど取り上げられていない。おそらく書籍においては、歌手という側面から大 衆音楽を記述することが稀であるということも関係しているだろう。
(2)藤浦洸と中野は仲が悪かったからで あろうと、中野の長男の中野忠彦氏は述べている。
(3)瀬川昌久氏(1924年生)の説明 による。

第1章
(4)1933年の『コロムビアレ コード邦楽総目録』のプロフィール、及び1932年6月のコロムビア月報には「長崎人」と書かれており、その頃父親が長崎の教会に勤めていた とする資料もあることから、出生地は長崎と見ることも出来る。
(5)作曲家の高木東六も中野と同様 に家が教会であり、やはりオルガンの存在が音楽に興味を抱く要因となった。ちなみに、ここで日本における讃美歌の歴史を簡単に概説しておく。 日本にキリスト教が広まったのは1885年前後におこった西欧文化謳歌時代と考えられており、讃美歌が普及され始めたのは日清戦争以後のキリ スト教運動の中からである。特に1903年11月には、讃美歌の総合統一出版が企てられ、世界各国共通の讃美歌が翻訳出版された。それ以来、 讃美歌はいっそう広がりをみせた。讃美歌のヨーロッパ七音音階の曲調は教科書にも取り入れられ、また従来の軍歌調はもちろん、五音音階の唱歌 調とは違う新鮮さを人々に感じさせた。
(6)中野は神戸で育ったため、後に コロムビアで「須磨行進曲」や「みなと行進曲」などの神戸のご当地ソングも相当残している。その中でも、1936年3月にプロ野球の球団が発 足した際に発表された「大阪タイガースの歌」は、現在もよく知られる「六甲おろし」の元歌である。
(7)日本にアメリカのダンス音楽 (ジャズ)が輸入されたのは大正時代の初めであったが、東京にダンス・ホールが栄えてジャズ音楽とジャズ・ソングに関心が集まったのは昭和に 入った1928年からであり、中野が東京に出てくる1年前のこの1928年は、2つの意味でジャズが日本で新紀元となった年であった。1つ目 には、今までジャズの舞台が大阪だったのが、1927年末に大阪市内のダンス・ホールが全店営業禁止になった影響で、1928年に次々と東京 にダンス・ホールが開店した。これにより、日本でのジャズのメッカが大阪から東京に移ったことである。この年、井田一郎率いるチェリー・ラン ド・ジャズ・バンドの面々が上京して4月に三越ホールでコンサートを開き、5月から浅草電気館に出演、二村定一の歌うジャズ・ソングで満都の 人気をさらった。当時の都会の社会風俗はといえば、「エロ・グロ・ナンセンス」などの退廃的な言葉が流行し、モボやモガと呼ばれる若者が街中 をさっそうと闊歩し、彼らがカフェーやダンス・ホールに集った時代であった。
 2つ目は、この年からレコード会社のジャズ・ソングブームが巻き起こったことである。この頃は、1927年9月の日本ビクター蓄 音機株式会社の設立、1928年1月の日本コロムビア蓄音機株式会社の設立、1926年末のポリドール蓄音機商会の設立と、国内のレコード企 業に外国資本が次々と参入した時期であったが、外国資本の参入まもないコロムビアとビクター両社は日本製の流行歌の発売と併行して、外国のポ ピュラーソングの日本語訳を日本人歌手に歌わせて、"ジャズ・ソング"と名付けて売り出したのである。当時の"ジャズ・ソング"という呼称 は、後の本格的なジャズ・ヴォーカルという意味ではなく、アメリカのヒットソングやフランスのシャンソン、ハワイのハワイアン、ドイツのタン ゴ…を日本語で歌ったものから、日本人が舶来風に作曲した和製ジャズ・ソングまで含めて、舶来風ポピュラーソング全てを含むものであった。こ れらジャズ・ソングは、1928年から古賀政男が登場する1931年までの3年間に渡って、流行歌の頂点の地位に君臨していたのである。
 この時期にジャズ・ソングを歌ったのは井上起久子、天野喜久代、川崎豊、徳山lといった、大正年間に流行した浅草オペラの出身者 であり、中でも一躍脚光を浴びたのが二村定一である。二村は美声とは言えなかったが大きな口を開けて、カタカナの楷書のようなはっきりとした 言葉でうたうのが特徴であった。彼がコロムビアとビクター両社から相次いで出したレコード「あほ空/アラビヤの唄」は、両社合わせて20万枚 以上が売れた。二村はジャズ・シンガーとしての名声を獲得しただけでなく、流行歌草分け時代の先駆者の1人であった。近代大衆音楽評論家の菊 池清麿は、二村が藤山一郎に影響を与えたことを指摘しているが、(菊池 online: sub10.html)中野も音楽学校時代に二村のジャズ・ソングを聞いていたであろう。
 なお、本稿でも"ジャズ・ソング"という語を、和製ジャズ・ソングも含めた舶来風ポピュラーソングの総称を表す語として、ま た、"和製ジャズ・ソング"という語を、日本人が舶来風に作曲した歌を表す語として使っていくこととする。
(8)その中で一番有名なのは、 1932年1月新譜の「夢は涙だか思出か」である。これは明らかに前年9月発売の大ヒット、古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」の模倣であり、 著作権侵害として裁判沙汰にまで発展した。
(9)中野が山田に見出されたという 以上のエピソードは、長男の中野忠彦氏の説明及びCD『SP盤復刻による懐かしのメロディ 中野忠晴』のアルバム解説での南葉二の解説 (p.11)を参考にしたものであるが、もう一つ別のエピソードもある。

中野 コロムビヤに入社する時「山の人氣者」を唄つた。山田耕筰さんがあれを聴いて是は面白い曲だ、唄ひ方が變つて居る と云ふので專屬になつた。流行歌も大分行詰つたから何か變つたものをやれと云ふのでテストをされ、「山の人氣者」と云ふのをやつて、コーラス を一寸入れた。それが當たつた。テストの時もそれだが、ヂャズに轉向した時もそれだ。實際因縁の深いマスコツトだよ、オーゴンレコード【=ト ンボ印のニッポンレコード】にも吹込んだ(笑聲)是くらゐの小さい奴でデパートにある。
奥野 堂々と中野と出て来る。「山の人氣者」で當たつたやうなものだね。
中野 僕はあれが一番縁が深い【。】オーゴンでも吹込むし、コロムビヤでも吹込む。前に聽いて悪かつた所を直して(笑聲)(『音楽新聞』第 216号, 1938, p.5, 文中墨付き括弧は筆者、原文には漢字にルビが振ってある)



 これによると、中野は1932年時点で既にジャズ・ソングをレコードに吹き込む意志が強かったことが伺える。
(10)当時のコロムビア月報では、 「新人テナー」と紹介されている。
(11)中野がコロムビアに入社した 頃のジャズ・ソングの状況には大きな変化が訪れていた。1928年から日本で流行していたジャズ・ソングであったが、まもなく大敵が現れたの である。1931年に始まる古賀政男の出現だ。この作曲家により演歌調歌謡曲という分野が開発され、ジャズ・ソングというあいまいな分野が完 全に駆逐されてしまった。流行歌の片隅に追いやられてしまったジャズ・ソングはそこで、今まであいまいに"ジャズ・ソング"と一括して捉えら れてきた各種の舶来風ポピュラーソングを、そのジャンルごと(ジャズ、ハワイアン、ラテン、シャンソン、コンチネンタル・タンゴ、アルゼンチ ン・タンゴなど)に分類しなおし、アメリカなどの本場の技術を吸収し、その特色あるサウンドを習得しようとした。レコード会社は始めからそれ ぞれのジャンルに応じた編曲とバンドを用いて、専門の歌手に歌わせたレコード作りを始めた。具体的には、1933年に来日した川畑文子のデ ビューを皮切りに、ベティ・稲田、リキー宮川、ヘレン本田、ヘレン隅田といった米国生まれの二世歌手を登用して、最新のジャズを日本語と英語 の双方で歌わせるという企画が始まった。また、歌謡曲とは完全に一線を画した、いわゆるバタ臭い唱法を身につけたディック・ミネや水島早苗な どの日本人歌手も現れた。
(12)このジャズ・コーラスに関し ては第2章で詳しく見ていくこととする。
(13)もっとも中野の持つこの声の 明朗さは、同時に勇壮さを表すものでもあったので、デビュー当時から軍歌や時局歌の吹き込みにも声が掛かることとなる。
(14)リズム・ボーイズとリズム・ シスターズに関しては次の章以降で詳しく見ていくこととする。
(15)中野はジャズ・ソングを歌い 始めた1934年以降に、作詞や作曲を開始している。なお、中野は1934年以降、"ジャズソング""ジャズコーラス""ジャズアルバム"" ジャズ民謡""ダンスミュージック""ポピュラーヴォーカル"との名称の認められるもので、自身が歌っている計91曲中29曲を自分で作詞・ 訳詞、8曲を作曲している。
(16)例として、「ラブレス・ラ ブ」と「ダイナ」の日本語歌詞を原曲と比べてみる。(ウェブへの掲載に当たり、歌詞は全 て省略)
まずは「ラブレス・ラブ」である。コロムビア社の「ミルク色だよ」とポリドール社の「薔薇の恋」がある。

Loveless Love(作曲:W.C.Handy)…原曲

ミルク色だよ(作詞:中野忠晴 編曲:仁木他喜雄)…コロムビアの中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズ盤

薔薇の恋(訳詞:サトウハチロー 編曲:紙恭輔)…ポリドールの西百合江盤

 次に「ダイナ」である。これは各レコード会社が異なる訳詞をつけて歌手に歌わせ、競作となった。

Dinah(作詞:サム・M・ルイス/ジョー・ヤング 作曲:ハリー・アクスト)…原曲

ダイナ(作詞:中野忠晴 編曲:奥山貞吉、1934年5月発売)…コロムビアの中野忠晴、コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ盤

ダイナー(訳詩:三根徳一 編曲:三根徳一、1935年1月発売):テイチクのディック・ミネ盤

エノケンのダイナ(訳詩:サトウハチロー 編曲:細田定雄、1936年11月発売):ポリドールの榎本健一盤

ダイナ(訳詩:上山雅輔 編曲:谷口又士、1935年12月発売)…ビクターの岸井明盤

ダイナ(訳詩:坂口淳 編曲:多紀英二、1938年6月発売):キングの林伊佐緒盤

 以上の例から、原曲の歌詞に忠実な訳詞ではなく、当意即妙な日本語の歌詞をつけていたのが中野だけではなかったということが分かる。
(17)原曲では、ダイナとは女性の 名前を表している。

第2章
(18)クヮルテット(=コルテッ ト)とは、日本語で四重唱のグループのことを指す。
(19)作間毅は法政大学のラッカン サン・ジャズ・バンドという学生バンドのメンバーで、日本でジャズ・ソングの創生期の歌手の1人である。
(20)気がついた時には時間がなく て出来なかったが、1935年当時のポリドール月報を見て、ポリドール・リズム・ボーイズがデビューしたのが何月かを探せば、はっきり分かる であろう。
(21)1927年11月、国民音楽 教会主催の「合唱競演祭」第1回入賞のアマチュア合唱団、東京リーダーターフェル・フェライン(男声)は、大正15年9月に結成された20名 の団体であったが、この中に秋山と山上が入っていた。1937年の「つわものの歌」、1938年の「荒鷲の歌」は大ヒットした軍歌であるが、 この団体がレコーディングしているとのことである。(長田, 1983, p.231)
(22)戦後のコーラス・グループ は、ジャズっぽくするということよりも、ハーモニーを重視していた。
(23)「このグループの成功は、バ リトンとバスが強力だったことで、バスはしばしばミルス・ブラザースを模して、楽器のベース音を「ボンボンボンボン」とヴォーカライズするの が特徴だった。」(瀬川, 1976, p.19)
(24)ただ、ボスウェル・シスター ズも、前述の清水・上村・佐良の和製ボスウェル・シスターズも、三重唱であったのに対して、リズム・シスターズは男性と同じ四重唱であった。 男性ジャズ・コーラスの多くが四重唱であるのに対し、女性ジャズ・コーラスは、後年結成されたものも含めてほとんどが三重唱である中で、リズ ム・シスターズが四重唱だったことは珍しいケースといえる。

第3章
(25)

仁木は大変に器用で、スウィートでも、ホット・ジャズでも、タンゴでも、ラテンでも一様にアチラ製に近い音を出させるこ とがうまかった。(中略)仁木の方は、バタ臭さが濃厚で、流行歌の伴奏も一ヒネリしたりしていたので、流行歌の軽音楽化にも、仲々の腕をふ るった。(瀬川, 1976, p.25)



洋楽物のアレンジをさせたらジャズでもタンゴでもラテンでも何でもござれ、すべて外国製に近い音を出させることがうまい 名アレンジャー仁木他喜雄(南, 1993b, p.41)



それにしてもこういうアレンジをやれば仁木他喜雄は抜群で、外国製とまごうばかりの音を出させることがうまかった。あの 頃の人気のタップ・ダンサー林時夫もステージ用のタップのアレンジメントを書いてもらったが仁木さんが最高にうまかったと激賞している。 (南, 1993b, p.48)



仁木君は浅草時代から和聲學を獨學で勉強したが、山田耕筰氏に就いて、それ迄に習得したものに磨きをかけた。その努力が むくいられ、尚且つ花月園時代から、つまり日本のジヤズの初期からこの分野の仕事を續けてゐるおかげで、ジヤズの傾向には不斷の注意を拂つて ゐるので、その編曲の上にはいつも新鮮味があふれてゐる。作曲者が作つたメロデイにいつもその時代の服装をとゝのへさせることが出來るのであ る。(野川, 1948, p.31)



(26)

昭和十年の夏であった。業界第一と目されているコロムビア・レコードから、大村能章、中野忠晴両氏を通じて移籍の打診が あった。ぼくにとっては渡りに舟である。(服部, 1993, p.129)



 服部の自伝には、コロムビアへの入社を推薦した人物として中野の名が挙がっている。
(27)

 入社までの間に、ぼくは一枚のレコードをエドワード文芸部長の許に届けた。『朝の紅茶を召し上がれ』という タイトルの日東紅茶のPRレコードである。ニットー・レコードが制作を引き受け、ぼくの作曲指揮で吹き込みしたものである。
 当時アメリカで人気の『ボスウェル・シスターズ』にならって、女性のリズム・コーラスをバックにした、ある意味ではぼくの野心作であった。
 エドワード氏に送ったのは、二つの狙いがあったからだ。一つはコロムビア入社後、このようなしゃれたジャズ・コーラスものを制作したいこ と。淡谷のり子をメインに想定した曲の構想はできていた。(服部, 1993, p.131)



(28)和洋折衷という観点では、昭 和初期の頃からジャズ民謡や和製ジャズ・ソングというジャンル、和製ジャズ・ソングとまではいかないまでも、流行歌にジャズの旋律を使うこと がよくあったが、この頃の日本ではジャズそのものがまだ未成熟であったため、厳密にはジャズはジャズではなくて舶来風音楽でしかなかった。し かし、1930年代後半の服部や仁木の編曲は、スイング・ジャズの手法を用いた本物のジャズと言ってよかった。
(29)ブルースはジャズの中の一形 態である。

第4章
(30)

そうそう、この会に呼びたかった人がもう一人いる。これも故人になった川田義雄(のちの晴久)君だ。彼はミルス・ブラ ザーズのレコードを聞き、僕らの合唱を聞いて「僕もやりたい」といい出した。彼一流のコミックを加え、その名もミルク・ブラザーズとつけて爆 発的人気を博したものである。(中野, 1960, p.2)



(31)コロムビア・リズム・シス ターズは、戦後コロムビア服部シスターズとして復興した。リズム・シスターズは戦前から服部の指導下にあったが、服部の名を冠するようになっ たのは戦後になってからである。
(32)

その頃、ぼくは、マンガ(メンバーの一人、佐々木通正のあだ名)と共に、いわゆるやわらかい、ワグネルのコーラスでやら ないようなコーラスに興味をもちはじめていました。それは当時、封切りされていた「ヒット・パレード」という映画の中で、ゴールデンゲイト・ クヮルテットの歌を聞いてしびれていたのです。(喜早, 1976, p.35, ただし括弧内は引用者による)



 

アメリカに「ミルス・ブラザース」という、黒人のカルテットがあるのをご存知でしょうか。素晴らしいフィーリングで歌う ジャズ・カルテットで、ぼくらの最も尊敬するコーラスグループです。(中略)日本にも何度か公演に来て、そのたびに、ぼくらはかけつけてむさ ぼるように聞きました。(喜早, 1976, p.245)



(33)

軍歌一色だった少年時代、焼き尽くされた廃墟の電柱にくくりつけられたスピーカーから流れるアメリカのジャズ、ポピュ ラー音楽は七色の虹を見上げる気持でした。つまり焼跡のジャズに目覚めてコーラスを始めました。お手本は、ゴールデンゲイトカルテット、デル タリズムボーイズです。戦前の日本における先駆者のグループはのちになって知りました。(谷, 2004, E-mail)



(34)結婚などでやめてしまうこと が多いため。
(35)

 ダーク・ダックスと他のコーラスグループとの根本的な違いは、ぼくらが自然発生的なグループであるという点 と、結成以来メンバーが不動という点です。同じ大学の同じ合唱団で、共に合宿をし、演奏会をしていた、俗にいう、学生時代から同じ釜の飯を 食った仲間だということです。チームを作って金をもうけようという、商売としての発想の上から組んだチームではありません。ハーモニーが好き で、コーラスが好きで、どうにもとまらない人間の集まりということです。
 それと、結成から二十五年間、同一メンバーだということ。これは世界にもその例を見ないと思います。以上の二つの点が、他のコーラスグルー プとダーク・ダックスの根本的に違う点です。(喜早, 1976, p.69)



 昔から、ずいぶん沢山の四重唱団や三重唱団がありました。でも結局それは、将来ソリストになっていくための ワンステップとしてコーラスをやっている、という人が多かったのです。プロの大合唱の場合も、そうでした。合唱団に入って勉強しながら将来は ソリストになる、独唱者になる、というのが、その段階的なものだったのです。その根本的な考えからも、ぼくたちは、いままでの四重唱団と違っ た性格を持っていたと思います。
 四人でハーモニーを出すこと。このダーク・ダックスを元にして独唱者になろうなどと、毛頭、思ってない四人が集まったというこ と。これが今日までのダーク・ダックスを続けてきた秘訣だったと思います。(喜早, 1976, pp.220-221)



(36)終戦後、東京を中心に各地に 設置された米軍キャンプや将校クラブが日本人ジャズメンの仕事場であったが、1952年日本の占領体制に終止符が打たれたため、これらのジャ ズメンが日本人相手に一斉に進出したために空前のジャズ・ブームが起こった。

第5章
(37)一般販売の対象でないプライ ベート盤は除く。
(38)時局の要請がステージ・ ショーの増加に拍車をかける面もあった。「一つは、アメリカとヨーロッパからの娯楽映画の輸入が、外貨節約のためしだいに制限され、洋画上映 館が上映本数に不足をきたしたため、ステージ・アトラクションとしてのショーを上演して、これを補う傾向が強くなったこと。二つめには、ジャ ズ、タンゴ、ハワイアン系の楽団の主要な仕事場であったダンスホールが昭和十三年ごろから弾圧され、十五年秋にはついに全面閉鎖されるにい たったため、大量のミュージシャンや歌手が仕事場を求めてどっと街に流れ出し、おりからショーの充実に力を入れていた各劇場の舞台に活路を見 出したことである。」(瀬川, 1983, p.174)「1930年代後半が、1941年末の日米開戦を控えた軍国主義の進行期であったのと裏腹に、音楽芸能の面では、予想外の発展と成熟を示した 実り多い数年間であった」(瀬川, 1982a, p.14)わけである。
(39)

「中野忠晴一行北海道へ」
9/9小樽を振出しに北海道各地十数ヶ所の演奏旅行 中野忠晴及びナカノ・リズム・ボーイズ、豆千代、タップダンスの林時夫及カーネーショ ン・シスターズ、コロムビア・オーケストラ一行(『音楽新聞』第162号, 1936)



中野忠晴氏とリズムボーイズ 来春一月一日より十二日迄北海道巡演
コロムビアリズムシスターズ 一月一日より一週間常盤座に出演(『音楽新聞』226号, 1938年12月)



霧島昇氏、伊藤久男氏、松平晃氏、明本京静氏、中野忠晴氏、二葉あき子さん、音丸さん、ミス・コロムビアさんコロンビ ア・リズム・ボーイズ、リズムシスターズ、兒童合唱團など廿日の日比谷公會堂「父よあなたは強かつた」發表會に出演廿一日同じメンバーにて第 一陸軍病院慰問廿一日「父よあなたは強かつた」發表演奏會大阪朝日會館に出演、廿三日京都、神戸廿四日名古屋等巡演(『音楽新聞』228号, 1939年1月)



松原操さん、中野忠晴氏 7月13日AK海外放送(『音楽新聞』246号, 1939)



(40)

霧島昇氏とリズムボーイズ 八月二十一日より二十七日まで神戸劇場で出演する(『音楽新聞』284号, 1940)



伊藤久男、二葉あき子、白光、リズムボーイズ 九月二十三日明治大学横浜会「愉しき軽音楽の集ひ」へ出演する。(『音楽 新聞』286号, 1940)



なお、NZ-7065(1977)の中野の説明に、「昭10からはディレクターも兼務、その間ペンネームを使って作詩、作曲など 昭14、再 び歌手に専念する決意」とある。1939年以降、中野はリズム・ボーイズの指導もやめたということではないだろうか。
(41)『昭和流行歌総覧 戦前・戦 中編』では、1941年に発売されたコロムビア・リズム・ボーイズ、コロムビア・リズム・シスターズのレコードの表記がそれぞれ、"コロムビ ア合唱団"、"コロムビア女声合唱団"となっている。また、1942年12月新譜の「歌ふ狸御殿」は、どの資料にもコロムビア合唱団の歌と表 記されているが、実際に聞いてみると、戦争を感じさせない明るい歌で、全盛期のリズム・ボーイズを彷彿とさせる見事な重唱となっている。この ことから、1941年以降、リズム・ボーイズやリズム・シスターズはコロムビア合唱団に吸収されてしまったと考えられる。
(42)

「何はともあれ、うたえるとはありがたい」
 私はすぐ、山形に疎開していた石井不二香さんと相談して、私のバンドと一緒に、方々の進駐軍のキャンプに出かけて行くことになっ た。
 私は「ラバー・カムバック・ツー・ミー」だとか、「ラ・クンパルシータ」とか、戦争中、うたえなかった歌、いろいろな外国の歌を、夢中でう たいまくった。(淡谷, 1997, p.154)



"ラジオ東京(謀略放送)のジャズ・バンド"と米軍クラブで紹介されるとどこでも大変な拍手を受け、こんな焼け野原に立 派なバンドがよく残っていたものだと感心された。GHQ(第一生命ビル)、ファイナンス・ビル(大蔵省)、三井クラブなどに連日出演したが、 どこでも米軍高級将校と同じテーブルでフル・コースのディナー。帰りにはタバコ、チョコレートなどたくさんもらって「楽隊商売冥利」につきる 思いをした。森山さんが楽員全員に、クラブの備品など絶対に持って帰らないようにと口ぐせのように注意をしていた。(内田, 1976, p.161, 橋本淳の回想)



(43)中野はキングレコードに入社 した後も、日本歌謡学院通信部という、歌手の養成学校を設立して校長となっている。なお、1937年に大村能章が設立した日本歌謡学院とは直 接の関係は無いようである。中野は事業を起こすことが好きであったようだ。
(44)

キングの新人江利チエミの作曲のためにキングレコード入社。(愛媛新聞, 1969)



 

"マロニエ三部作"の二曲目にあたる『マロニエの花咲く頃』をレコーディングしたのは、昭和二十七年の暮れのことです。
 作曲の中野忠晴さんは、もともとコロムビア専属の歌手でしたが、私のために"歌を作りたい"とキングに移って、初めて作られたのがこの曲 だったのです。(松島, 1988, p.176)



 

私がキングで全盛時代の頃、たしか昭和二十六年の正月四日、コロムビア時代に仲の良かった中野忠晴が突然訪ねて來て呉れ たが、どうした譯か見すぼらしい服装で、いかにも落ちぶれた負け犬といった格好だった。その少し前まで、彼は銀座の菊正ビルで二十五人位の社 員を使って盛大にやってゐたのに、一體これはどうした譯かと私自身びっくりした。
 私の書斎へ通すと、彼は兩手をつかへて「お恥づかしい話だが、今日は一生の頼みで來た。俺を助けてくれ。」と頭を疊につけて平伏してゐるの だ。「水くさいことを言ふなよ。頭をあげてくれ。」と言ふと、「實は俺は事業に失敗して、明日食ふ米もないのだ。家も家具も全部差押へを喰っ てゐるのだ。」と言ふ。そんな譯で、すぐ彼をキングに連れて行き、清水部長に逢ひ、いささか氣がひけたが押しの一手で「中野忠晴を今日即座に 專屬作曲家にしてやって欲しい。」と頼み込んでO・Kをとり、その足で全音樂譜出版社に出かけ「中野君が作曲家としてキングの專屬になったの で、こちらでも專屬に頼む。」と、これも押しの一手でO・Kをとり、專屬料の前金を貰って引き揚げたのだが、どちらかと言へば氣の弱い私とし ては、その日ほど氣の強い、切羽詰まった氣になったことはなかった。友人とは裕福な時ばかりのつき合ひではない。困った時こそ、力になり合ふ ものだとの信條の私だけに、その日ぐらゐつらい想ひをしたことはなかった。(松村, 1977, p.2, 文中の"昭和二十六年"は、"昭和二十七年"の誤りではないか。)



 松村の記述が一番具体的であり、現実を表しているように見受けられる。
(45)戦前中野の推薦でコロムビア に入社した服部も、戦後は中野とは仲が悪くなり、コロムビアへの復帰を反対したかもしれないとの中野忠彦氏の推測もあった。
(46)東京九段の「昭和館」で視聴 可。
(47)キングレコードに問い合わせ た結果、ヤング中野が吹き込んだ歌には、この2曲の他にもう1曲、「青春は口笛に乗って」(歌:ヤング中野、作詞:松村又一、作曲:中野忠 晴、編曲:寺岡眞三、録音:1952年3月19日)があるが、発売はされなかったようである。
(48)「達者でナ」にはもう一つエ ピソードがある。この歌には"一人二重唱"という中野のアイデアが使われていた。この頃可能になったテープ録音の技術を利用して、三橋1人の 声で二重唱の重ね録音を行ったのである。これは、戦前のジャズ・コーラスの経験で、重唱の美しさを知っていた中野であるからこそ思いついた発 想であったと言えるだろう。既成の事実に捉われない斬新な発想を、思い立ったらすぐに実行に移すのが中野であった。
(49)朝日新聞、読売新聞、毎日新 聞で記事を確認。郷土の愛媛新聞にも訃報記事は載ったが、記事の大きさは在京各誌と変わらなかった。

終章
(50)前身は1965年の「歌謡百 年」という番組である。


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