序章 中野忠晴という人物を研究する意義



 中野忠晴とは誰か。現代の多くの人々はこの人物の名前を知らないであろう。
 1998年2月19日放送の日本テレビ系列番組、「午後は○○ おもいっきりテレビ」の「きょうは何の日」のコーナーで、「作曲家、中野忠晴が亡くなった日」が特集された。1958年に若原一郎の歌でヒットした、「おーい中村君」は当時23万枚売れたという。この歌は数年前にテレビCMでも使用されたことがあり、現代でも多くの人が知っているであろう。この歌の作曲者が中野忠晴である。中野はこの歌の他にも、若原一郎・春日八郎・三橋美智也らのための歌を作曲し、昭和30年代の日本歌謡界にヒットを連発させた。
 ただ、この「おもいっきりテレビ」の特集では、戦後の作曲家としての功績のみに注目していた。というのは、中野は戦前は「山の人気者」「小さな喫茶店」「チャイナ・タンゴ」などのモダンな歌を歌ってヒットさせた流行歌手であったのだ。それが、「おもいっきりテレビ」では、戦前の歌手時代に関しては、ほとんど触れられていなかったのである。中野の功績は、戦後よりも戦前にこそ価値のあるものであったと考えている筆者にとって、その点が残念でならなかった。
 そもそも、筆者が中野に出会ったのは、まず戦前の歌手時代を通してであった。市の中央図書館に所蔵されている20枚組のCD『オリジナル盤による昭和の流行歌』(日本コロムビア)を聞いて、中野の存在を知った。中野の明朗で甘い美声により歌われているジャズ・ソングに心を打たれた。また、中野が日本初の本格的なジャズ・コーラス・グループであるコロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズを養成・指導したということを知ったのもこの時であった。戦後中野が歌手をやめて作曲家に転身、しかもジャズ・ソングではなく歌謡曲専門の作曲家になったのを知ったのは後になってからである。
 戦前の日本で明るく朗らかなジャズ・ソングを歌い、日本初の本格的なジャズ・コーラス・グループを指導した中野は、CDやLPの解説書では、戦前の日本にジャズを広めたパイオニアとして一定の評価がされているが、不思議なことに、日本の流行歌史やジャズ史を扱った書籍には、中野はあまり取り上げられていないことが多かった。(1)
 また、他の歌手と比較しても、先の「おもいっきりテレビ」に限らず、戦後の日本人は一貫して中野忠晴という歌手を忘れてしまっている傾向があると感じる。例えば「三代の歌手ベスト100」では徳山lや上原敏、二村定一、松平晃、楠木繁夫といった、中野同様に戦後は歌手として活躍できなかった人物まで載っているにもかかわらず、中野の項目は無い。藤浦洸の『なつめろの人々』でも同様に、中野の項は無い。(2)また、長田暁二の『続 音楽おもしろゼミナール』では、中野ではなく服部良一がジャズ・コーラスの草分けとして紹介されているし、1957年の雑誌『娯楽よみうり』のコーラス特集の記事に至っては、日本初のジャズ・コーラスは"あきれたボーイズ"とされている。
 このように歌手としての中野は戦後、すっかり忘れ去られてしまったわけであるが、戦前は「淡谷のり子よりも有名なくらいであり、知らない人はいなかった」(3)そうである。というのも、レコードのヒットだけでなく、中野はリズム・ボーイズを引き連れて度々ステージ・ショーに出演していたし、松竹の映画にも出演していたからである。戦前は中野が人々から順当に評価されていたことが分かるが、現在では戦前の活躍をリアルタイムで知る人々は少なくなってしまった。そこで本稿は、戦後は忘れ去られたがその存在を無視することはできない中野忠晴という人物が果たした功績を、特に戦前のジャズ・コーラスに注目して振り返り、評価を試みるものである。なお、中野には自伝などの著書類は残っていないし、中野の経歴を包括的に取り上げた評伝も管見する範囲では見つかっていない。そこで本稿では、中野の業績や経歴の整理を試みることから始めようと思う。


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