第1章 中野が有名になるまで



〔1〕コロムビア社に入社するまで
 中野は1909年5月27日、愛媛県喜多郡大洲町(現在の大洲市中村)に生まれた。(4)父である忠治は教会で牧師をしていたため、中野にとっては身近にオルガンという楽器が小さい頃からあった。このオルガンの讃美歌の音色により、幼い日の中野は洋楽に興味を抱くようになったということである。(5)中野は子どもの頃から教会の讃美歌隊にも入っており、讃美歌は中野の、後年のジャズ・ソングを歌う歌手としての道に多大な影響を及ぼしたと考えられる。
 1910年、父が神戸地方部の教会へ転出したために中野も神戸に移り、小学校は神戸の雲中小学校(現在の神戸市立雲中小学校)で過ごす。ここに、中学時代に中野が書いた詩を引用する。

      なつかしの森         四年丙組 中野忠晴
   1森!!なつかしの森!!
    美しき傅説と
    色々の記憶が待つて居る森
    試験も終り
    一安心した時
    一番さきにかけつける森
    僕はこの森が一番好きだ。

   2森の中の小さな雑草地
    そこは僕の一番好きな場所だ
    やはらかき雑草の上に寝ころびて
    樹の葉に取り圍れたる小空を仰ぎつつ
    かはゆらしき小鳥の歌もきき
    ありし日の追憶にもふけり
    歌も唄い、詩も吟じた
    僕はこの森が一番好きだ。

   3森の中の雑草地
    そこは僕の一番すきな場所だ
    ほんとにここは静かな場所だ
    太古そのまゝの静けさだ
    みどりの葉ふかく、蝉のなきかはす夏の森
    蟲のねぎごとかはす秋の森
    白き銀ぱくにてつゝまれし冬の森
    春まつりたいこきこゆる春の森
    僕はこの森が一番すきだ。

    4森中の雑草地
    そこ僕はの(ママ)一番すきな場所だ
    魚つりに行き
    魚はつれずえをみなとらした時
    くしゃくしゃまぎれひるねをしたのもここ
    近所の子供の俄鬼大将となり
    裏山の柿をぬすみ
    こつそり皆とたべたのもこの森だ
    僕はこの森が一番すきだ。(大洲中學校, 1928, pp.89‐90, ただし太線は引用者による)

 この詩から、中野は子どもの頃から歌を愛していたことが伺える。また、単に歌が好きな優男ではなく、ガキ大将となるなどの腕白な少年時代ぶりが伺える。(6)
 雲中小学校を卒業後は愛媛に戻り、松山の北予中学(現在の愛媛県立松山北高等学校)に入学、その後大洲中学(現在の愛媛県立大洲高等学校)に転校した。大洲中学時代は、雄弁大会で第二等賞を取ったり、後輩の毛利松平(後の代議士)に柔道を教えたり校歌の音頭取りをしたりするなど、「 "憂国の士"をもって任ずるウデっぷしの強い応援団長であ」(愛媛新聞, 1969)り、引き続き活発な生徒であったことを示している。
 1929年に中野は大洲中学を卒業し、武蔵野音楽学校(現在の武蔵野音楽大学)声楽科に入学する。中野が郷里から初めて出てきた、ちょうどこの頃の東京ではジャズ・ソング・ブームが栄えていた(7)が、後にコロムビアで相当のジャズ・ソングを吹き込むことになる中野が、このブームから大きな影響を受けたことは間違いないであろう。
 また、武蔵野音楽学校時代、中野は学資稼ぎのためにトンボ印のニッポン・レコードでレコードを吹き込むアルバイトを行っていた。(8)このレコード吹き込みの経験が、後のレコード歌手としての中野の原典と言えるであろう。
武蔵野音楽学校では声楽家の木下保に師事した中野は、1932年春、音楽学校声楽科の新卒業生を集めて行われた新人音楽会で、クルト・ワイルの三文オペラ中の歌、「マック・ザ・ナイフ」を歌った。三文オペラは1932年前半期の日本で流行ったジャズ・オペラであり、黒田謙主役で東京で上演された他、トーキー映画の上映、原曲のレコード化、東京音楽学校での演奏と、当時かなり流行した。中野もこの流行にのり、新人音楽会で独唱したのである。当時の音楽学校ではクラシックが主流で、ポピュラーの地位は確立していなかった。こうした風潮の中果敢に三文オペラに挑んだ中野は、洋楽の中でもクラシックではなくポピュラーに関心が集まっていたということが伺える。中野はこの独唱により、当時クラシック、ポピュラーを問わず日本の音楽界での第一人者であった山田耕筰に認められ、山田の推薦で1932年6月、コロムビアの専属歌手となるに至ったのである。(9)

〔2〕コロムビア社で歌手として
 中野はコロムビア社では当初、ビクターの専属歌手、徳山lの対抗馬とされていた。(10)コロムビア社での中野の最初の吹き込みは、1932年6月新譜の古賀政男作編曲の「夜霧の港」である。また、翌7月には、この年の8月にロサンゼルスで開催された第10回オリンピックに際して朝日新聞の募集で作られた応援歌、山田耕筰作編曲の「走れ大地を」を歌った。このように中野は1932〜1933年にかけては、古賀メロディーを始めとする歌謡曲を中心に歌を吹き込んでいて、ジャズ・ソングは1曲も吹き込んでいない。
 しかし、もともと洋楽ポピュラー(=ジャズ・ソング)に興味のあった中野である。自らもジャズ・ソングを歌う機会を伺っていたに違いない。(11)
 当時のレコード歌手は、藤本二三吉や小唄勝太郎、市丸などの花柳界出身の芸者歌手を除けば、歌謡曲系統の歌手は誰もがジャズ・ソングを吹き込んでいたと言ってもよい。藤山一郎や松平晃を始め、楠木繁夫や東海林太郎までもがジャズ・ソングを吹き込んでいた。中野も彼らの多くと同じく音楽学校の出身者で、もともとは歌謡曲の類も相当吹き込んでいるので、歌謡曲系統の歌手であるが、その系統の歌手の中では、最もジャズ・ソングを吹き込んでいると言える。中野が初めて歌ったジャズ・ソングは、1934年1月新譜の「山の人気者/今夜逢ってね」である。コロムビア・リズム・ボーイズというジャズ・コーラスと組んだ初めての作品でもあり、(12)特に「山の人気者」は大ヒットして、中野の名を有名にした出世作となった。
 この「山の人気者」がヒットした1934年から、中野は次々とジャズ・ソングをレコードに吹き込むようになり、歌謡曲の吹き込み数を凌駕するようになる。ジャズシンガーの先駆者である二村の頃のジャズ・ソングはジャンルがあいまいであったし、技術的にもまだまだ未熟で、ジャズというよりはただのダンス・ミュージックに過ぎなかった。中野の活躍した1935年ごろは、日本でもジャズ・ソングがジャズとして水準が上がってきた頃であり、中野自身技術の高いジャズ・ソングを歌っている。中野は1930年代にディック・ミネと並んで、日本人歌手としてジャズ・ソングを歌い、日本のジャズ・ソングの水準を向上させた功績があるといえる。
 ところで、当時のコロムビア月報を見ていると、中野のレコードの紹介にはデビュー当時から、"明朗明快""爽やか""朗らか""溌溂""清新"といった言葉が沢山並べられている。中野の声質が元来明朗軽快であるために、歌う歌も明るく朗らかで、若者の青春を讃歌するというような明るい内容のものが多くなっているのである。この傾向は1934年以降ジャズ・ソングを主に吹き込むようになってからも継承されており、中野はジャズ・ソングの持つ明るい部分を日本人にアピールしたといえる。(13)これに対し、ディック・ミネは、日本語の歌詞をローマ字に書き改めて英語の発音で歌ったり、間のつなぎをジャズ風にしたりすることで、バタ臭く異国情緒を匂わせるジャズ・ソングを歌っていた。ディック・ミネや二世歌手のジャズ・ソングが、いかにも外国の歌を歌っていますというようなバタ臭さを匂わせるものであったのに対して、中野のジャズ・ソングは、その甘い歌声と「ぴったりとした日本語歌詞がはめられていたので、当時の一般大衆は、日本人の作ったモダンな流行歌だと思って歌っていた」(南, 1993a, p.11)。このように中野は、本来外国の歌であったジャズ・ソングを、日本の大衆に日本的に消化させるという功績をもたらした。

〔3〕コロムビア社でディレクターとして
 中野はジャズ・ソングを歌うようになって以降、歌手としてだけではなく、ディレクターとしてもコロムビア社と契約をしていた。当時のディレクターは、作曲家(音楽系)と作詞家(文学系)の人が半々くらいの比率で兼業していた。しかし、歌手がディレクターを兼ねるというのは珍しいことであった。なぜなら、作曲家や作詞家は実際に歌を作っていく人達なので、レコードの企画をしていくのに適していたのに対して、歌手は完成した歌を歌うだけの役割に過ぎなかったからである。
ディレクターの仕事としての具体的な内容は、リズム・ボーイズやリズム・シスターズの人材発掘と指導育成である。(14)また、これらのグループのギャラなどのお金を統括していたのも中野であった。もう1つの重要な仕事は、自分たちが歌うためのジャズ・ソングを洋楽盤の中から探し出してきたということである。立派なスタンダード曲を沢山選び出しており、しばしば自分で訳詞も行った。また、日本人作曲家が和製ジャズ・ソングを作った時にも、同じように自ら作詞を行っていたし、時には自ら作曲することもあった。(15)
 中野の作詞・訳詞は特に、リズム・ボーイズ、リズム・シスターズのためになされた。計28曲の作詞・訳詞のうち、リズム・ボーイズやリズム・シスターズがからんでいる曲は26曲である。中野は自分の歌うジャズ・ソングと同じく、訳詞に関しても、「当意即妙な歌詞をはめこみ、全く違ったタイトルをつけて日本的に消化してしまう"特技"をもっていた。」(南, 1993b, p.45)もっとも、ジャズ・ソングにぴったりとした日本語歌詞をつけること自体は、中野に限ったことではなく、他の作詞家も同じように訳詞をつけていた。(16)中野の作詞・訳詞で特徴的なのは、軽快なジャズ・ソングの場合に、歌詞も非常にくだけた、口語的でテンポの良いものを選んでいたという点であろう。例えば、「ダイナ」の「聞かせて頂ダイナ/泣かせて頂ダイナ」という歌詞では、タイトルの"ダイナ"(17)と、"頂戴な"という文句を掛け言葉にして洒落っ気を出している。また、「口笛が吹けるかい?」の「僕等の青春(はる)だよ 愉快だね!! ヘイ!!/朗らかに!! ヘイ!!/歌おうよ!! ヘイ!!」という歌詞には、口語的で非常にくだけた文句を使うことで歌のテンポを良くしているという機能がある。他にも、歌詞は未確認であるが、「猫の合唱」や「七匹の犬」のようなコミック・ソングの歌詞も中野はつけている。以上により、中野の作詞・訳詞の魅力は、外国のメロディーであるジャズ・ソングを日本人が楽しく聞けるような工夫がされていたという点にあると言える。その結果、当時の大衆は、中野が作詞・訳詞したジャズ・ソングを外国の歌と認識することなく、日本的に消化することが出来た。


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