第2章 中野が育てたジャズ・コーラス



 戦前の中野の功績でもっとも重要なのが、コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ、コロムビア・ナカノ・リズム・シスターズの育成をし、ヒットにつなげたことである。このリズム・ボーイズとリズム・シスターズは日本初の本格的なジャズ・コーラスであった。

〔1〕ジャズ・コーラスとは
 "コーラス"の日本語訳は"合唱"である。なので、ジャズ・コーラスとはジャズ・ソングの合唱のことかというと、そう単純ではない。例えば1928年ニッポノホン(コロムビアの前身)新譜の「あほ空/アラビヤの唄」はレコードのレーベルに「男女合唱」と記されているので、ジャズ・コーラスかというとそうではない。「合唱」の広義は集団による歌唱を指すが、狭義には多声部歌唱、それも各声部が複数の歌唱者からなる場合について言うようになっている。「あほ空/アラビヤの唄」に関しては、二村定一と天野喜久代の二人が声を合わせて単旋律を歌っているユニゾン(斉唱)にすぎないので、広義での合唱ではあるが、狭義での合唱ではない。ジャズ・コーラスは多声部歌唱であるが、各声部は1人である。各声部一人の多声部歌唱のことを日本語で"重唱"と呼ぶので、ジャズ・コーラスをあえて日本語にすると、「ジャズ重唱」とするのがよい。
 このように定義からして複雑なジャズ・コーラスであるが、そもそも英語ではジャズ・コーラスのことをjazz chorusとは言わずに、jazz vocal group(ジャズ・ヴォーカル・グループ)と言う。ジャズ・コーラスは狭義での合唱ではないので、日本語でもジャズ・ヴォーカル・グループと呼ぶのが正確ではあるが、ジャズ・コーラスという語は日本語に馴染んでしまっているので、本稿でもジャズ・コーラスという語で統一していくこととする。

〔2〕コロムビア・リズム・ボーイズの誕生
 ジャズの本場、アメリカでのジャズ・コーラスの草分けは、女性コーラスであるボスウェル・シスターズであり、1920年代の半ばに、ジャズ・コーラスとしての最初のレコーディングを行っている。また、男性のジャズ・コーラスの草分けは1931年にレコード・デビューしたミルス・ブラザースであり、この年「Tiger Rag」がミリオン・セラー・ヒットして、ジャズ・コーラス・ブームを全米に巻き起こしている。ボスウェル・シスターズは3人の白人姉妹による三重唱であった。ミルス・ブラザースは黒人4兄弟の四重唱であり、バーバーショップ・クヮルテット(18)の流れを組んでいた。バーバーショップ・クヮルテットの歴史は古く1870年代に遡り、南部の黒人たちの四重唱団が生み出したもので、リード・テナー、セカンド・テナーのテノール2、バリトン1、バス1の四声の構成であり、ミルス・ブラザースもそれを受け継いでいた。この四重唱のスタイルは、日本でもコロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズやあきれたぼういず、戦後のダーク・ダックスなどの男性グループに大いに影響を与えていくこととなる。ボスウェル・シスターズとミルス・ブラザースのレコードは日本にも輸入され、日本人の間にファンを増やしていった。
 我が国における最初の男声四重唱は、1899年に、同志社大学の創立者である新島襄の死去十年祭が開かれた時、4人の外国人宣教師が讃美歌を歌った時であろうと言われている。(山口, 1933, p.90)この流れは日本での合唱の発達につながっていった。我が国でのジャズ・コーラスは、作間毅(19)が1929年ごろに自らのレコードで二重唱や三重唱を使っている他、1933年に溜池フロリダのステージからデビューした清水君子、上村まり(後の中川まり子)、佐良喜子(後の水島早苗)の3人が、ボスウェル・シスターズの日本版を作ろうと和製ボスウェル・シスターズを編成し、ステージで歌った例がある。しかし、レコード会社専属の本格的なジャズ・コーラス・グループは、中野が指導したコロムビア・リズム・ボーイズが日本では初めてであった。

十三日夜、産経ホールで聞いたミルス・ブラザーズの公演は、僕の二十年来の夢を実現させてくれた。昭和十二、三年ごろだったと思う。当時歌謡曲歌手だった僕はなにか新しいスタイルの歌謡曲を生みだそうと努力していた。そんなとき新橋の喫茶店でミルスのレコードを聞いて"これだ"と感じた。早速友人たちを集めてコーラスの練習を始め、中野リズム・ボーイズが生まれた(中野, 1960, p.2)



 これは戦後の中野の回想である。「昭和十二、三年ごろ」というのは明らかに中野の勘違いで、正しくは昭和8年(1933年)のことであった。

この四人のリズム・ボーイズの養成は、中野忠晴が熱心に推進したものだが、その前身は、昭和八年初めにデビューしたコロムビア・アイキー・クワルテットと称する四人組のコーラス・グループだった。その時は、「おおスザンナ」とか「猫そう動」「ディキシー」その他アメリカ民謡などを、主として取り上げたが、これを徐々にジャズ・コーラスに発展せしめた。(瀬川, 1976, p.19)



中野はジャズの方面に進出して新機軸を出そうと考え、翌年武蔵野音楽学校卒業生で組織していた四人組コーラスをコロムビアに迎え、コロムビア・リズム・ボーイズを結成、それとのコンビで、ジャズ歌手のみちを歩み始めた。(中略)オリジナルメンバーは、第一テナー木下伊左男、第二テナー松本欣三郎、バリトン村田清、バス早川一郎で、武蔵野音楽学校在学中に、アメリカの黒人4人兄弟、ミルス・ブラザースの素晴らしいコーラスをレコードできいてすっかり感服して結成したものだった。(瀬川, 1982a, p.17)



 当時のコロムビア月報によると、コロムビア・アイキー・コルテットは1933年1月の新譜で初登場している。レコードの呼称は「男聲四重唱」となっており、4人の写真付きで紹介されている。

スザナ これは、シック・ボーイを以て自認するほどではなくとも兎に角シヨーワの若者である以上は飛び付いて来ずには居られんレコードです。忽然として世に現はれ出でたコロムビア・アイキー・コルテットの面々、この面々が口一丁(?)によつて奏で出で唄ひ出す妙技の何とスゲエことぞ!月報子の安物のパイロット萬年筆なんぞを以ては到底その片鱗をさへ描き出すことは出来んです。乞ふ、直接圓盤について御視聴あらんことを! 猫騒動(コロムビア邦楽レコード正月新譜, 1932年12月, p.12)



 月報をたどっていくと、コロムビア・アイキー・コルテットは1933年の1月に「スザナ/猫騒動」、2月に「酒合戦/戀愛三段階」を出しているに過ぎないが、4月には同じく「男聲四重唱」のコロムビア・ミッキー・フォアーが「牧場/山の神」、7月に「ディキシー・ランド/ラ・パロマ」を出している。瀬川(1976, p.19)と合わせて判断すると、コロムビア・アイキー・コルテットとコロムビア・ミッキー・フォアーは同グループであると考えるのが妥当である。
 1933年の段階では、まだこの四重唱は中野の指導は受けていないが、瀬川(1982a, p.17)を参考にすると、4人をコロムビアに呼んだのは中野であろう。瀬川(1982a)・NZ-7065(1977)・MR9163/5(1984)を参考にすると、この四人は中野と同じ武蔵野音楽学校の出身者であり、在学中の1930年にグループを結成している。第一テナーの木下伊佐男は長野県出身でのちのポリドールディレクター、第二テナーの松本欣三郎は岡山県出身、バリトンの村田清は東京出身、バスの早川一郎は名古屋出身で早川彌左衛門の令息であるとのことである。中野はこの4人と同じ音楽学校の出身であるので、在学中から4人と面識があったのかもしれない。また、中野を含めた5人ともミルス・ブラザースに感銘を受けていたという点でも共通しているので、1933年に中野の元でコロムビア・リズム・ボーイズとして、中野と一緒に「山の人気者/今夜逢ってね」を吹き込み、翌年の正月にレコードが発売されるに至った。

こゝに端倪すべからざる明朗ボーイがあるです。名を中野忠晴!その明朗ボーイが腕にヨリをかけて、いや咽喉にヨリをかけて唄ひ出た「山の人氣男(ママ)」」、これがまたおッそろしく明朗明快なるジャズ・レコードであるです。曲がいゝ上に彼中野忠晴氏が張り切つて唄つて居るのでその刻むリズムはジャズを聞かなくちや一晩もオチオチと眠れんといふ男性(をとのこ)や女性(をんなのこ)をぞくぞくとさせずにはオカンです。その上、合唱のコロムビア・リズム・ボーイズのうまさ、全く日本にもこんな朗らかなレコードが出来るやうになつたかと、その嬉しさに自と頭が下るです。B面は同じ中野忠晴氏とコロムビア・リズム・ボーイズ吹込の「今夜逢つてね」――この方にはいさゝかのペーソスが盛られてあつて、味へども味へども盡きぬなかなかいゝ味はひがあるです。(二七六五〇)(コロムビア邦楽レコード正月新譜, 1933年12月, pp.14-15)



 今までのレコードでも、前述の作間毅が二重唱や三重唱を使うことがあったが、レコードのレーベルには"独唱"とのみ書かれ、コーラスの存在は重要視されないことが多かった。しかし、「山の人気者/今夜逢ってね」は呼称にも「ジャズ・コーラス」という言葉を用い、宣伝でもリズム・ボーイズを前面に押し出した点が革新的であった。結果、このレコードは「ジャズ・コーラス」という呼称、「コロムビア・リズム・ボーイズ」という名称で出した初めてのものであったが、A面の「山の人気者」がいきなり大ヒットし、当時3万枚ものレコードが製造された。瀬川(1976, p.19)によれば「山の人気者」は、「日本人に極めて親しみ深いメロディアスな旋律であること、リズム・ボーイズの四重唱が、日本人のコーラス隊としては、珍しい程良く揃って迫力もあったので、このレコードが大ヒットした。この旋律は、全国津々浦々に唄われた。殊に夏の海岸などの人の集まるところで、景気付けに流すには、日本調流行歌の物悲しさがなく、明るい曲調なので最適だった。」
 コロムビアではこの成功に気を良くして、その後も「中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズ」の名称、「ジャズ・コーラス」の呼称で、「ダイナ」「街の人気者」などの作品を売り出していった。1934年6月新譜の「六月の唄」では、中野忠晴とリズム・ボーイズに加えて淡谷のり子も初めて一緒に吹き込んだ。また、10月新譜の「十月の唄」では、淡谷のり子とコロムビア・リズム・ボーイズが歌っており、初めて中野以外の歌手のバックコーラスを務めたが、1934年においては、リズム・ボーイズは中野のバックコーラスを務めることがほとんどであった。
 このように順風満帆なスタートを切ったコロムビア・リズム・ボーイズであったが、「ジャズ・コーラスの人気に目をつけたポリドール・レコードが、昭和10年にこの4人をそっくり引き抜いてしまったため、中野忠晴は新しく新人を養成して再結成、コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズの名でデビューさせた。」(瀬川, 1982a, p.17)この事件は当時の月報や新聞などの記事からは何も発見できなかったが、月報で1935年3月の新譜から、コロムビア・リズム・ボーイズの呼称が「コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ」と中野の名前を冠するようになったため、この時期にメンバーの総入れ替えがあったことを伺わせる。(20)1935年までのメンバー、木下・松本・村田・早川の4人は揃ってポリドール・リズム・ボーイズとなり、ポリドール社でジャズ・コーラスだけでなく、歌謡曲のバックコーラスも多く吹き込むようになった。コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズのメンバーは全員新人であり、第一テナー秋山日出夫、第二テナー原田礼輔、バリトン手塚慎一、バス山上松蔵である。秋山と山上はアマチュア合唱団の出身であり(21)、戦後秋山は日本合唱協会理事、山上は後のビクター作曲家東辰三となった。原田は戦後コロムビアのディレクターになった。
 ここで注目しておきたいのは、突然リズム・ボーイズのメンバーの総入れ替えが起こってしまったというのに、中野やコロムビアに全くの動揺が見られないという点である。1934年の5月以来、コンスタントに1ヶ月に2曲(=レコード1枚)のジャズ・コーラスをリズム・ボーイズは吹き込んできているのだが、メンバーの総入れ替えが起こったであろう1935年3月を迎えても、そのペースに乱れは生じていないのである。もちろん、月報にメンバーの総入れ替え云々の話も出てこない。1935年2月までのリズム・ボーイズは、もともと中野が影響力を与える以前から自分達で四重唱を歌っていた。それに対して、1935年3月以降のナカノ・リズム・ボーイズは、全くの新人を中野が発掘してきて、いきなりジャズ・コーラスのレコードを吹き込ませたこととなる。新人といっても秋山と山上は合唱団の経験があるので、ジャズ・コーラスにもさほど苦労しなかったのかもしれないが、中野の人材発掘能力と、短期間の指導の成果の賜物であると言えるだろう。

〔3〕コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズのレベルの高さ
 リズム・ボーイズのレパートリーには、「猫の合唱」や「七匹の犬」のようなコミックソングもあれば、ミルス・ブラザース張りの渋い本格的なスタンダードものもあった。中でも一番ジャズとして優れていると評価されているのは、1935年7月新譜の「タイガー・ラッグ/サン・ライズ」である。瀬川(1976, p.37)(1982a, p.26)では、どちらも内田英一の当時の解説を引用した上で、「タイガー・ラッグ」の演奏の早さとうまさ、編曲のすばらしさを、1935年という時代を考慮に入れた上で大々的に賞賛している。「タイガー・ラッグ」は仁木他喜雄の編曲、中野忠晴の独唱、リズム・ボーイズのコーラス、コロムビア・ジャズ・バンドの演奏と、全ての要素がジャズに対する高度な実力を兼ね備えていたからこそ、当時としてはかなり高度な作品に仕上がり、現在でも高く評価されている。

戦後ダークダックスやデューク・エイセスがよく歌っているが、スイングすることにかけては元祖の方が遥かに優れていると思うのは私の思い過ごしだろうか。(瀬川, 1982b, ただし引用は上海 online:recocore.html)



 戦後の日本では1950年代に、ダーク・ダックスやデューク・エイセス、ボニー・ジャックスなどのジャズ・コーラス・ブームが起こっているが、戦前のリズム・ボーイズの方が戦後の彼らよりもジャズとしてのレベルは高かったと言える。(22)また、戦後とは異なり、戦前においてはレコードの吹き込みは同時録音の時代であった。中野、リズム・ボーイズの5人の他にも、演奏のバンドも一緒に同時に録音した。誰か1人でも途中で失敗したら、最初からやり直しをしなければならなかった。同時録音で上手く吹き込むためには、かなりの練習量が要求されたことは自明である。前掲中野(1960, p.2)から、当時中野とリズム・ボーイズのメンバーで集まり、ミルス・ブラザースのレコードを手本にしながら、かなりの練習を積んだであろうことが、残されたレコードの完成度の高さから伺えるわけである。(23)
 メンバーが総入れ替えした後の1935、1936年もやはりリズム・ボーイズは中野と組むことが多かったが、淡谷のり子や二葉あき子、二世歌手のリキー宮川やベティ稲田、宮川はるみと組むこともあった。中でも注目したいのは、1936年2月新譜の「風になよなよ」である。これは豆千代とリズム・ボーイズが組んだものであるが、豆千代は邦楽畑の芸者歌手である。邦楽とジャズの折衷は、ジャズ民謡などの形で昭和初期から既に存在していたが、ここに至ってコーラス部門でも和洋折衷が取り組まれたことが分かる。
 リズム・ボーイズに続いて1936年1月新譜で、コロムビア・ナカノ・リズム・シスターズという女性コーラスが初めてレコードを吹き込んでいる。初期のメンバーは、山野美和子、榊夏子、柘植けい子、鈴木芳枝の4人である。これは女性ジャズ・コーラスの草分けであるアメリカのボスウェル・シスターズを手本に組織されたものである。(24)リズム・シスターズもリズム・ボーイズ同様にナカノ・リズム・シスターズと称していたことからも分かるとおり、中野が組織して最初の頃は指導もしていたが、まもなくコロムビアに入社して入ってきた服部良一に指導は譲ってしまった。


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