第3章 二人の編曲家+服部良一の存在と ジャズ・コーラス



〔1〕奥山貞吉と仁木他喜雄
 中野忠晴を語る際に、コロムビア専属の2人の編曲家、奥山貞吉と仁木他喜雄の存在は無視できない。この2人は戦前のコロムビアの代表的な編曲家 であったが、中野に関しても、コロムビアで中野、リズム・ボーイズ、リズム・シスターズが吹き込んだ計331曲中、83曲が奥山の編曲、98曲が 仁木の編曲である。中野は音楽学校の出身者なので、自分でピアノも弾けたし楽譜を読むことも出来たので、時々自分で作曲も行っている。しかし、中 野は音楽学校でも声楽科の出身なので、編曲の勉強はしなかった。そこで、中野本人やリズム・ボーイズ、リズム・シスターズが歌う歌の編曲は、もっ ぱらコロムビア専属編曲家の奥山と仁木に頼ることが多かった。
 奥山貞吉(1887〜1956)は東洋音楽学校を卒業して、大正年間は船のバンドとして外国人客などを相手にダンスミュージックを演奏した。昭 和に入ってからは、ハタノ・オーケストラに加わり帝国ホテルでオーケストラを演奏するかたわら、開局まもない東京放送局(NHK)で内外楽曲の編 曲にあたった。浅草オペラ全盛期には金竜館で楽長をつとめ、その頃知り合った佐々紅華の勧めでコロムビアに入った。以降はコロムビアの専属作編曲 家として多くの作品を残している。娘には、コロムビア・ナカノ・リズム・シスターズのメンバーに在籍し、後にソロ歌手となった奥山彩子がいる。
 仁木他喜雄(1901〜1958)は北海道の生まれで、横浜のバンド屋「睦崎」に入門、ここではドラムを習得した。東京の東洋音楽学校に入り、 日本における民間で常設されたダンス・ホールの草分けである花月園舞踏場で、1920年からバンドのドラムとして出演した。当時、波多野福太郎が アメリカから持ち帰ったジャズ譜を一心に研究した。1925年日本交響楽団を経て、1926年新交響楽団(現NHK交響楽団)創設時にティンパ ニー(打楽器)奏者として活躍、1940年まで在団した。かたわら、山田耕筰の弟子となり、作曲・編曲をマスターした。コロムビアには編曲家とし て入社し、多くの優れた編曲を残している。
 奥山は中野のデビュー以前から、仁木は中野より1年遅れて1933年からコロムビアで編曲を開始しており、2人とも歌謡曲、ジャズ・ソングを問 わずに編曲をしている。しかし、奥山が歌謡曲の編曲を得意にしていたのに対し、仁木はジャズ・ソングの編曲を得意にしていた。事実、厳密には「大 体歌謡曲の方は、奥山貞吉と仁木とが半々くらい宛、ジャズ・ソングと軽音楽では、仁木が三分の二、残りが他のアレンジャーという割合が、ずっと終 戦直後まで続いた。」(瀬川, 1976, p.25)奥山はレコーディング・オーケストラにアコーディオンを採り入れるなどの、和洋合奏による歌謡曲調の伴奏スタイルを確立し、編曲界の至宝とうた われているほど、日本の歌謡曲に与えた功績は大きいと言われている。しかし、奥山は「ジャズ的な素養は、殆ど持ち合わせぬ人だった。(中略)奥山 のアレンジしたジャズ・ソングやダンス・ミュージックは、全く単純で、ジャズのハーモニーの面白さも、ソロ・プレイのスリルも持ち合わせぬもの だった。」(瀬川, 1976, p.25)これに対して、仁木は戦前の数少ない優れたジャズ・アレンジャーであった。(25)最もジャズとしての技術が高い作品であると して評価されている、前章で挙げた「タイガー・ラッグ」も仁木の編曲である。
 前記の通り瀬川(1976, p.25)には酷評されている奥山のジャズ編曲であるが、奥山のジャズ編曲には奥山なりの良さがあった。奥山のジャズ編曲はジャズとしては優れていなかっ たかもしれないが、日本人好みのものではあっただろうということである。1930年代の日本の大衆はまだまだバタ臭いものには耳が肥えていなかっ たであろうから、奥山の歌謡曲調のジャズ編曲の方が、仁木のバタ臭いジャズ編曲よりも大衆ウケしたのではないだろうか。事実、奥山の編曲した「山 の人気者」や「街の人気者」、「口笛が吹けるかい?」などはヒットした。

〔2〕服部良一のジャズ・コーラス
 このように中野とリズム・ボーイズ、リズム・シスターズが活躍した前半期の吹き込みは、以上の奥山と仁木の編曲の貢献によるところが大きかっ た。ところが、後半期においては、1936年にコロムビアに入社した服部良一(1907〜1993)の影響力が一番大きかったと言える。
 服部は大阪生まれで、1923年9月1日に出雲屋少年音楽隊に第一期生として入隊し、サックスを習った。1926年3月に大阪フィルハーモニッ ク・オーケストラの楽員となり、翌1927年には神戸在住の指揮者エマヌエル・メッテルに師事して、リムスキー・コルサコフの和声学、対位法、管 弦楽法、指揮法を学び続ける。その後ジャズに興味を持って、1930年には 西宮ダンスホールのバンドリーダーになるなど、専心ジャズ編曲法を研 究した。作曲家を志して1931年にはタイヘイ・レコードの専属作曲家になるが、ヒットすることなく終わった。1933年8月に上京し、東京人形 町のユニオン・ダンスホールの菊地博のバンドに参加して、サックスを吹きながら、バンドに編曲を提供する一方、ニットー・レコードの専属となり、 多くの流行歌をジャズ風に作編曲した。ニットー・レコードでは破格の待遇であったが、マイナーなレコード会社での活躍の限界を感じていた服部は、 1936年2月に大手のコロムビア・レコードに入社した。(26)
 このように服部は、仁木に匹敵するくらいジャズの編曲と作曲に優れていたが、ジャズ・コーラスにも興味があった。(27)服部はニットー・レコード時代の1935年に自身初めてのジャズ・コーラス、 「ジャズかっぽれ」で、林伊佐緒を含んだ4人のコーラスを吹き込んでいる。1936年2月にコロムビア入社後は、5月新譜で早速「おしゃれ娘」を 作編曲して淡谷のり子とリズム・シスターズに吹き込ませている。しかし、1936年に服部が作編曲したジャズ・コーラス、ジャズ・ソングはどれも ヒットしなかった。「それはその何れもが、通常のポップ流行歌的曲調だったからだ。」(瀬川, 1976, p.23)
 服部はコロムビア入社後すぐの1936年3月6日に、日本民謡の「草津節」を題材にした「草津ジャズ」という演奏だけの曲を吹き込んでいる。こ のように、服部は日本独自のジャズを確立しようと模索していた。(28)奥山のような歌謡調のジャズでもなければ、仁木のような単にバタ臭いだけのジャズ でもない、日本的旋律を残しながらジャズ的手法を駆使するという、新しい型の和製ジャズを目指したのである。1937年7月に淡谷のり子の歌で出 した「別れのブルース」は、それを見事に実現させた和製ブルースの誕生であり、当時十三万枚製造されるというくらいの超大ヒットであった。(29)
「別れのブルース」より3ヶ月前に、服部はその試みをジャズ・コーラスでも実践していた。1937年4月新譜の「山寺の和尚さん」は、題材に日本 古謡の手毬うたを取り上げたもので、手毬うたの旋律を見事にジャズ・コーラスの手法でまとめ上げたものである。題材の面白さという点でもずば抜け ていたし、コミカルな歌詞の面白さも大いにウケた。これが大ヒットし、服部の出世作となったばかりでなく、リズム・ボーイズも一段と有名になっ た。服部はこの後も引き続き、日本古来の俗曲や童謡、民謡を題材にしたジャズ・コーラスを作成していった。「もしもし亀よ」「ジャズ浪曲」「日の 丸数へ唄」「お江戸日本橋」「かっぽれ」などを、リズム・ボーイズやリズム・シスターズに歌わせた。
 「山寺の和尚さん」以来のこれらのジャズ・コーラスは、今までソロ歌手のバックコーラスしか務めてこなかったリズム・ボーイズ、リズム・シス ターズを、単独で初めて起用した作品群でもあった。今までソロ歌手の脇役でしかなかったジャズ・コーラスを、主役として起用させたわけである。こ こに至って、日本のジャズ・コーラスは完全に日本のものとして確立されたと言えるであろう。
 この服部のジャズ・コーラスの大成功と、それに伴うリズム・ボーイズ、リズム・シスターズの単独での起用の増加により、中野のジャズ・コーラス への影響力が低下したことは確実である。しかし、服部のジャズ・コーラスが成功したことの背景には、既にナカノ・リズム・ボーイズ、ナカノ・リズ ム・シスターズという、中野によって高度に洗練されたジャズ・コーラス・グループがコロムビアに存在していたからこそのものである。「山寺の和尚 さん」以来、コロムビアのジャズ・コーラスは服部にお株が奪われた格好になってしまったが、もともと日本初の本格的なジャズ・コーラスを養成した のは中野であり、中野が育てたリズム・ボーイズとリズム・シスターズがあったからこそ、服部の成功も成り立ったのだということを忘れてはならな い。


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