事後レポート



1/17 「昭和歌謡大全」と『昭和流行歌総覧 戦前・戦中編』で調べた結果、戦前リストから「30086A 1939年1月 『谷の灯ともし頃』 歌:高峰三枝子、コロムビア・ナカノ・リズム・シスターズ 作詩:入江静雄 編曲:仁木他喜雄」(B面は松平晃の「ブルー・ムーン」が抜けていることが分かりました。

2/3 昨日は卒論の口述試験でした。日本史学研究室の4人の先生方から、色々厳しいコメントをいただきましたので、ここに整理してみます。
・日本の歌謡史、大衆文化史の中でのジャズの位置付けが見えてこない。ジャズ評論という分野は研究者自体が少ないので、意味をなさないのではないか。
・史料引用の仕方が不親切。
・「瀬川さんがこう言っているから〜という結論が言えるだろう」というような、人の意見の切り貼りしか行っておらず、先行研究を踏まえた上での自分なりの分析(全体的な評価)が記述されていない。
→筆者に音楽の理論的な知識が欠如している以上は、自分なりに分析していくことは危険であると判断したため、「他人がこう言っているからこうだろう」というような文章の書き方しか出来ませんでした。m(__)m
・第3章と第4章は中野の功績というよりも、服部の功績を評価した文章になってしまっている。
・第3章で、服部が日本古謡を利用したことが触れられているが、これをもっと分析してほしかった。
・中野が戦後歌を歌わなくなったことの背景には、やはり戦争による影響が考えられるのではないか。
→筆者としては、戦争が中野に及ぼした影響は軽視できるものであるだろうと結論付けたので、論文でも扱いませんでした。
・聴き取り調査の限界――家族などだと、知ってても教えてくれないこともある

6/25 掲示板上で徳山lの記述の箇所が間違っているという指摘をいただきましたので、訂正を致しました。
第1章〔2〕
中野はコロムビア社では当初、武蔵野音楽学校の先輩でもあるビクターの専属歌手、徳山lの対抗馬とされていた。
→徳山lは正しくは、東京音楽学校の出身でした。

9/7 1.「作曲家、中野忠晴が亡くなった日」(『午後は○○おもいっきりテレビ きょうは何の日』.1998年2月19日放送)に基づき、第5章では、中野が召集された地を沖縄としておりましたが、先日入手したラジオ番組「この歌あの人」(シンポ工業、1970年5月放送、アナウンサー:宇井昇、ゲスト:中野未亡人、吉田信)の説明によると、高知の土佐(中部第八十四部隊)であったことが判明したため、修正しました。(中野の未亡人や友人の吉田信さんがゲスト出演しているので、こちらの方が信憑性があると判断。)夜になると講堂に皆で集まり、中野二等兵は「中部八十四部隊歌」という部隊の歌を歌ったとのことです。

2.Eメールで何回か松野繁晴さん(仮名)から中野に関する貴重な情報をいただきました。ここに紹介させていただきます。

「リズム・ボーイズに関して言えば、レコードレーベルに「コロムビア男声合唱団」となっていても、作曲者の所有する楽譜などから、彼らがレコーディングをしているケースもあるようです。だいぶ以前ですが、タイヘイレコードの歌手として活躍した立花ひろしさん(故人)にインタビューした際、リーガル専属当時(藤野正夫がリーガル時代の芸名)男声コーラスはよくリズム・ボーイズとレコーディングしたそうで、昭和13年の「雪の戦線」のコーラスはリズム・ボーイズだったそうです。ただし、ただ合唱をしているだけで、ジャズのフィーリングは全く感じられません。(私も聞いてみましたが、何となくそんな気がする程度の合唱でした)
立花さんは、後にリズム・シスターズに参加した高杉妙子(福田琴子)とリーガルに同期入社しているのですが、私がお会いしたのは高杉さんがお亡くなりになってすぐくらいでした。ちなみに松平晃の「華やかなる突撃」や「上海航路」、渡辺はま子の「シナの夜」などもシスターズまたはボーイズが参加している筈です。」


「中野忠晴が、昭和8年の末に当時タイヘイで仕事をしていた友人・作曲家の宍田文雄(竹岡信幸のこと)に頼まれて、アルバイト吹込みをしたのはご存知ですか?昭和9年2月に「牧忠夫」の名前で発売された『ビルの窓辺に』です。」(←牧忠夫の他、「水田潔」の名前でも吹き込んでいる。詳しくは戦前リストを参照)

「森一也先生からの手紙を整理していましたら、次のような記述がありました。
『中野忠晴がジャズ・ソングに傾倒したのは、アル・ジョルスンの映画「シンギング・フール(Singing Fool)」を見てからだそうで、その主題歌を見事に歌ったのが『可愛い坊や』で・・・』というものです。
アル・ジョルスンとは、アメリカのジャズ・シンガーで、その活躍は古く、1900年代初頭から主にブロードウェイのミュージカルで活躍。アメリカの偉大な作曲家・ジョージ・ガーシュインの作品「スワニー」を歌ってガーシュインを世に出した人物でもあります。1925年、世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」に主演して、大人気を得ています。この映画の大ヒットを受けて製作されたのが、「Singing Fool」で、主題歌の「Sonny Boy」は欧米で大ヒット。映画の公開は、1928年です。日本では、昭和6年に初のスーパーインポーズ(字幕付)外国映画「モロッコ」が公開されていますので、恐らく「Singing Fool」の日本公開は、昭和6〜8年頃ではないかと思われます。私もこの映画を見ましたが、この当時の映画にしては、ドラマの内容もなかなか感動的で、特にラスト・シーンで、ジョルスンが劇中の我が子の最期を看取った直後のステージで、涙ながらに「Sonny Boy」を歌う場面は印象的です。(ちなみにアル・ジョルスンの生涯は、脚色されているものの1946年に「ジョルスン物語」、49年に「ジョルスン再び歌う」として映画化されています。現在は、DVDで視聴可能です。私はジョルスンのファンでもありまして、レコードもだいぶ集めました。)
中野が「可愛い坊や」をレコーディングしたのは昭和13年ですから、ある程度自分の地位が確立してきたこともあって長年の夢を叶えたと言えましょう。恐らくコロムビアの復刻CDでは、このことは触れていないと思われます。なぜなら、南葉二氏は、中野と面識がなく、こうした話は知らないはずです。ただし、森一也氏が解説を書かれた「西條八十全集」の解説には、恐らくこのことが書かれていると思いますので、今度その解説が手元にあるか探してみたいと思います。
「この歌あの人」での中野の未亡人の発言によれば、「中野は映画を作りたいと言っていた。それも、ハリウッド映画のようなミュージカル映画の監督をしたいようだったが、あまりにお金がかかり過ぎて、諦めた・・・」と証言していますので、この「Singing Fool」の影響は、中野にとってかなり強いものであったものと思われます。」


「キングには、歌手兼作曲家というパターンが、非常に多く見られます。林伊佐緒が、戦前にその地位を確立したからかもしれませんが、他にも、「ああ我が戦友」のヒットで知られる近衛八郎は、鎌多俊与として「哀愁列車」など多くのヒット曲を出していますし、「高原の旅愁」の作曲家・八洲秀章は、戦後「志摩光一」という歌手名でキングで何曲もレコーディングしています。松平晃も昭和25年に自分で作曲した「湖畔の灯り」をキングから発売しています。これは偶然かもしれませんが、戦時中に貴島正一としてデビューした歌手が、昭和26年に作曲家としてキングに入社し、渡久地政信の本名に戻って「上海帰りのリル」を作曲し大ヒットさせています。昭和18年〜27年までキングの専属歌手であった立花ひろし氏によれば、「とにかくたくさんの歌手がいた」とのことですから、中野も歌手としてよりも作曲の分野に進出しないことには、専属となったものの活躍の場がなかったのかも知れません。昭和26年のキングは、まさに黄金時代で、トップスターに岡晴夫、津村謙、松島詩子、林伊佐緒、三條町子らがいましたし、他社からの入社組では、松平の他に、東海林太郎、近江俊郎、音丸、そして、当時の新人には、若原一郎や春日八郎、江利チエミなども控えていましたから、歌い手は山ほどいたということになります。当時専属だった元SKDの大国阿子(津村謙夫人)などは、散々ステージで歌っているのに、レコーディングはほとんどなかったようです。」

「まずは、ポリドール・リズム・ボーイズについて。
「山の人気者」のヒットで、ポリドールが4人を引き抜いたことは、近藤さんもよくご存知のことだと思いますが、ポリドールでも恐らく自前でリズム・ボーイズの編成を考えていたのではないかと思われるレコードがあります。確か、昭和8年の中旬ごろの発売だと思いますが、PCL映画「ほろよい人生」の主題歌で、「酒呑みの唄」というレコードが、ポリドール・ラッキー・ボーイズという面々の歌で発売されているからです。ただ、このコーラスは、ただの合唱という感じのお粗末なコーラスで、中野のように、ボーカルにからめて歌うという領域まで達していません。
ポリドールに移籍したリズム・ボーイズは、当初「山賊の合唱」のヒットがあったものの、リズム・ボーイズだけでレコーディングしたものは非常に少なかったと思いますし、ごくたまにメンバーがソロで月村光子などと吹き込んでいましたが、ほとんど合唱団代わりのコーラスばかりだと思います。これも、森一也先生から伺ったお話ですが、昭和11年に森先生の同級生の宗近明氏(後の声楽家・柴田睦陸のアルバイト名)が学校にアルバイトがバレそうになり吹込みを渋っていたところ、森先生が「セントルイス・ブルース」なら彼がよく好んで歌っているからレコーディングをするのではないかとポリドールの社員に提案し、実現したことがあったそうです。ところが、宗近氏がスタジオに足を運ぶと、リズム・ボーイズがコーラスに来ていて、全員面識があるために大変閉口したそうです。このときのメンバーは3人だったそうなので、森先生の記憶が正しければ、3人でレコーディングすることもあったという証にもなります。
ポリドール・リズム・ボーイズのレコードで記憶に残るのは、昭和11年の「あなたの私で」(歌・結城道子)、「エノケンの月光価千金」(歌・榎本健一)、12年の「窓の乙女」(歌・結城道子)、「八幡船」(歌・東海林太郎)、13年「黄河の舟唄」(歌・東海林太郎)などです。昭和14年に上原敏・青葉笙子の「二人の大地」にもコーラスを入れていますが、恐らくこの辺あたりが、リズム・ボーイズとして最後のレコードではないでしょうか?レーベルにこそ書かれていませんが、やはり14年の「大陸夫婦囃子」(歌・〆香)は、リズム・ボーイズの合唱であると思われるのですが、なかなか上手く〆香とからんでいて面白いレコードです。そう言えば、昭和12年の年末に発売されたレコードには、リズム・ボーイズとしてでなく、メンバー全員のフルネームがレーベルに記載された戦時歌謡があったように記憶しています。
同じ時期に、ビクター・リズム・ジョーカーズというグループが活躍していますが、こちらは中野とは一切関係ないようで、コロムビアに刺激されて誕生したグループのようですが、このときにアレンジを担当した高木静夫が後にあきれたぼういずの音楽監督をしていたとのことですから、中野の影響は少なからずあったのかも知れません。


2006 3/18 「コロムビア・アイキー・クワルテットとコロムビア・ミッキー・フォアーに関して」をまとめました。

2007 3/29 ジャズ専門新聞である「ジャズワールド」(2007年3月号)の一コーナー、「日本ジャズヴォーカル物語」で、拙稿が紹介されました。
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2007 4/10 先月に引き続き、「ジャズワールド」4月号にて拙稿が紹介されました。
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2007 7/27 「ジャズワールド」5月号にて引き続き拙稿が紹介されました。最終回です。
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